連載コラム【マーチングと共に】#2マーチングが結んだ縁(竹村憲夫)

みなさんこんにちは! 竹村憲夫です。前回は私のマーチングとの様々な出会いについてお話ししました。第2回は指導者になるきっかけなどについて、その時代ごとに振り返ってお伝えしてみたいと思います。

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大学時代~Drum Corpsとの出会いと指導の旅~

関東学院高校を卒業し、大学に進学した私は、憧れでもあった「日本ビューグルバンド」に運良く参加することが出来ました。団体在籍中は数々の著名な指導者の方と会遇し、編曲やドリルデザイン、指導法などを学ばせていただきました。また、日本マーチングバンド指導者協会の講習会では、一層深くマーチングを学ぶ機会に恵まれ、全国的に有名な先生方から直接お話を伺ったり指導を受けたり、徹夜で勉強や練習するなどといった研鑽の機会を得たことも良い思い出です。

また、時を同じくしてDrum & Bugle Corpsと出会い、その魅力にとりつかれた時期でもありました。1978(昭和53)年には一ヶ月渡米し、Drum Corps International(DCI)とDrum Corps Association(DCA)の大会見学や、Senior Drum Corpsの練習から大会参加にまで同行するという、当時では冒険に近い機会にも恵まれました。

1978年以降は、指導者協会でのご縁を通じて、全国各地の講習会や様々なマーチングバンド団体の合宿などに参加させていただき、指導経験だけでなく様々な情報を得ることができました。同時に、マーチングの輪をより一層広げることもできました。また、1980(昭和55)年に栃木県で開催された第35回国民体育大会(通称:栃の葉国体)では参加団体の指導に携わらせていただき、ここでの経験はのちへと繋がるものとなりました。

高校教員時代~指導に奔走した日々~

大学卒業後の1982(昭和57)年、私は宇都宮女子商業高等学校(現・宇都宮文星女子高等学校)に教員として着任し、マーチングバンドの指導担当を務めさせていただきました。これも日本マーチングバンド指導者協会や栃の葉国体などでの貴重な出会いから実現できたことと感謝しています。

教員と放課後の部活動の指導は楽しくもあり、また大変な毎日でもありました。担任として受け持ったクラスの生徒は55名おり、授業担当もあったため空き時間は教材研究に費やしました。部活動は朝と放課後に練習があり、夜は編曲やフォーメーション作成と目の回るような日々でした。部活動での指導は(ホームルームでもですが)技術指導だけで済むわけもなく、学年間の揉め事から生徒の家庭の事情、友人とのトラブルに技術の悩みなど様々な問題に対応対処しなければなりませんでした。部員全員が力を発揮できる環境を作るためには、避けては通れない道でした。大変ではありましたが、自分にとって大切な経験だったと思っています。

1985(昭和60)年には、新しいもの好きだった私は当時まだ珍しかったコンピュータを購入して勉強する機会に恵まれました。当初はワープロや表計算などを動かす程度でしたが、デスクトップミュージックの世界を知ってからはコンピュータに没頭しました。コンピュータのソフトを使って編曲を始めたのもこの時期で、何日も徹夜して編曲していました。今では体力・気力が追いつきませんが……。

こうして、中学校から始めたマーチングを通じて、様々な経験と出会いにより高等学校のマーチングバンド指導を任せていただくことができました。これはとても幸運であったと同時に、様々な先輩や先生方との出会いにより実現できたことであったと、感謝している毎日です。次回は審査員としてお手伝いさせていただくことになった経緯についてお話させていただきたいと思いますので、どうぞお付き合いください。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

著者プロフィール
竹村憲夫(たけむら のりお)

関東学院から日本ビューグルバンドに進み編曲・フォーメーションデザイン担当。宇都宮女子商業高において、全国大会13年連続金賞、ミスドリルチーム世界大会第二位を受賞。日本マーチングバンド協会の県、支部、全国大会などで審査員を務める。現在、一般社団法人日本マーチングバンド協会 理事長、日本マーチングバンド協会公認指導員、ドラムコージャパン公認ジャッジ。

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