追悼特集 日本マーチングバンドの父・広岡徹也先生を偲んで(1)

去る2026年4月、日本マーチングバンドの発展に多大なる功績を残された広岡徹也(ひろおか・てつや)先生が逝去されました。マーチングナビ編集部では、広岡先生との縁ある方々から追悼コラムを紹介し、ご功績とともにお人柄などを振り返っていきたいと思います。

広岡先生と歩んだ日々の想い出(日本マーチングバンド協会理事長 竹村憲夫)

広岡先生と私の出会いは1972(昭和47)年の二学期でした。当時、先生はすでにマーチングバンドの先駆者として全国に名を轟かせていました。私はそのバンドにトランペットで入部し、その後、テューバやドラムメジャーも経験させていただきました。1973(昭和48)年には「第1回マーチングバンド全国大会」へ出場しました。フォーメーションシートもない中、先生の掛け声一つでブロックドリルが組み上がっていく練習は、新鮮で楽しい思い出です。 

この頃、先生はヨーロッパの金管バンドスタイルへの移行を進めており、編成が大きく変わる変革期でもありました。1975(昭和50)年3月には、日米吹奏楽連盟合同会議の日本代表として海外遠征を経験しました。当時としては極めて珍しい、ヨーロッパスタイルの中高生金管バンド(フルート有り)による海外遠征でした。最先端のシャツを身にまとい、誇らしげに全員と記念撮影をしていた先生の嬉しそうな笑顔が、今も目に浮かびます。

高校進学後も活動を続け、1977(昭和52)年には先生の計画でブラスロックバンドが始動しました。私はキーボードを担当し、合歓の郷での合宿や演奏会でポップスなどを披露しました。同年夏にはスイスの「フェテ・ジュネーブ」に日本代表として出場。白い背広を粋に着こなし、胸を張ってパレードを率いる先生の誇らしげな姿は、今も目に焼き付いています。 

昼休みになると音楽室の教官室に呼ばれ、直々にフォーメーションの作成方法を教わり、大会用のフォーメーション作成も任せていただけるようになりました。まるでパズルのようなフォーメーション作りでしたが、完成した時に「どうだ楽しいだろ!」と語りかける先生の笑顔も忘れられません。 

日本の吹奏楽界に数々の歴史を刻んだ広岡先生。その偉大な功績の一方で、常に生徒と同じ目線で怒り、褒め、笑い、守りながら、私たちの可能性を広げてくださる優しくも厳しい身近な存在でもありました。この歳になっても中学校時代の恩師からご指導とご心配をいただいたという幸運、そして先生の深いご恩に心から感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします。広岡先生、ありがとうございました。

広岡先生を偲んで(日本マーチングバンド協会相談役 有國浄光)

未経験でマーチングの世界に飛び込んだ私が最初に頼ったのは指導者協会でした。「2級って初心者でも受験できますか?」と尋ねた私に対し、事務局の小倉英美子先生が「頑張れば可能ですよ」と返してくださった、その一言が人生の転機となりました。

45年を経て振り返れば、広岡先生をはじめ(原田元吉、西山勉、宮田峰雄、山本富男、山﨑昌平)先生など、日本のマーチング界を設立・牽引された先生方に直接指導いただけたことは大きな誇りと財産になっています。

関東学院の音楽とブロック崩しが大好きで、憧れでした。今も自分の中で目標としています。コピーしたくて何度もチャレンジしましたが、フレーズにあった崩しのバランスは追従できませんでした。『ナイルの守り』を演奏するたびに日本武道館を思い出します。

広岡先生は全国高校文化連盟M&B部会の初代部会長でした。1997(平成9)年の奈良大会前、「有國君、僕の代わりに奈良へ行ってくれ」の一言がきっかけで、私と竹村事務局長のコンビが27年間続くことになりました。おかげで全国各地にマーチング仲間を作ることができました。先生が全日本M&B連盟理事長(当時)、私が総務部長だった時には、二人で大手新聞社の本社を訪問しました。話の内容は先生と私だけの秘密ですが、組織にとって大きな岐路となったと思います。その打ち合わせの中で、広岡先生の世界観や音楽への情熱に感銘を受けたことを、今も強烈に覚えています。 

先生の訃報に接し、先輩方のスケールの大きさを改めて感じています。私も後期高齢者の仲間入りを控え、終活を始める時期となりました。お近くに伺いましたら、ブロック崩しがぶつからない企業秘密を教えてください。長い間お世話になりました。ありがとうございます。 

広岡徹也先生の思いを消さないように(愛町吹奏楽団ディレクター 関根清和)

日本のマーチングバンドの基礎を創り、発展に導いて下さった広岡徹也先生との色々な思い出が浮かんできます。

天理教愛町分教会吹奏楽団は、私が大学1年生の19歳だった1962(昭和37)年、4人で始まりました。試行錯誤する中で愛知工業大学名電高校の卒業メンバーを迎え入れ、まずは座奏からスタートしました。そうした中、1967(昭和42)年6月に広岡先生が「日本パレードバンドアソシエーション」を横浜に結成され、日本にマーチングバンドの灯を灯されました。

1969(昭和43)年8月には、ヤマハ主催で「トーマスデビス・パレードクリニック」が開かれ、これを受講したことでマーチングの波が少しずつ広がり始めました。翌1970(昭和44)年には日本武道館で初めて簡単なマーチングを披露する機会がありました。続く1971(昭和45)年には「日本マーチング指導者協会(JMBDA)」が設立され、箱根強羅でキャンプが行われました。この時、広岡先生や原田元吉先生と親しくさせて頂くようになったのです。 

翌1972(昭和46)年3月には原田先生と中部連盟を結成し、4月には「全国マーチングバンド連盟」が発足しました。この頃、JMBDAのマーチングバンドアメリカ研修旅行に16名で参加し、この時の色々な思い出もよみがえってきます。1973(昭和47)年には「第1回マーチングバンドフェスティバル(全国大会)」が東京都体育館で開催されました。愛町はこの時からお世話になっております。 その後、バトントワーリングの高山アイコ先生達も加わり、バンドとバトンが一緒に歩むこととなり、1977(昭和52)年には「全日本マーチングバンド・バトントワーリング連盟」に改称されました。一方、広岡先生は日本ビューグルバンドを立ち上げ、アメリカスタイルのマーチングを披露されました。1980(昭和55)年には、原田先生とアメリカ南部のバーミンガムでDCIを見学し、色々な資料を集めて帰国。これを機に、日本でもDCIの影響が少しずつ広がっていきました。 

指導者協会を立ち上げたころの皆さんは、もうほとんどお姿を見ることがなくなりましたが、去年も原田先生にお会いしに行き、昔のことやこれからのマーチングの夢を語り合いました。マーチングの素晴らしい活動を通して、これからも若い人たちが立派な社会人に育っていけるよう、広岡徹也先生の思いを消さないように、これからも頑張っていきたいと思います。

広岡徹也(ひろおか・てつや)
東京藝術大学音楽学部声楽科を卒業後、関東学院中学校高等学校にて教職に就き、関東学院マーチングバンド初代顧問に就任。警視庁音楽隊の岡林新太郎氏に行進・指揮法を師事した。1957年から8年間、神奈川県吹奏楽連盟常任理事を歴任。横須賀駐留の米海軍「ビューグルバンド」との出会いを機に渡米し、講習会で技術を習得。1966年、関東学院OBらと日本初のマーチングバンド「日本ビューグルバンド」を結成した。東京オリンピック前夜祭での小学生の大規模パレード指揮、大阪万博でのショー出演、アメリカでの大規模バンド指揮、国体オープニングでの演技指揮などを歴任し、晩年は(一社)日本マーチングバンド協会顧問として尽力した。

受賞歴
・第28回日本管・打楽器吹奏楽アカデミー賞(2017年)
・神奈川県民功労者表彰(2018年)
・文化庁 令和元年度地域文化功労者表彰(芸術分野)(2019年)
・旭日双光章(2023年)

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