
1966年(昭和41年)、玉名女子高校で教員二年目を迎えた私は、新しく創部された吹奏楽部の顧問を命じられました。音楽教員ではなく、商業科で数学を教えていた私を含め、生徒も全員がまったくの初心者。女子高生が楽器を吹くこと自体が珍しい時代で、当時は「吹奏楽」ではなく「ブラバン」という呼び方が一般的でした。
都市部の様子を知ろうと、(もちろんインターネットのない時代ですから)書店に出向いて吹奏楽に関する書籍を探してみました。そこで見つけたのが、音楽之友社発行の月刊誌『バンドジャーナル』です。誌面をめくってみると、「ブラバン」という表現を使っている団体は一つもありません。これをきっかけに、部の名前を「吹奏楽部」と改めることにしました。
クラリネットの組み立て方すら知らない私は、楽器店の方に一から手ほどきを受けました。トランペットのマウスピースへの唇の当て方もわからず、生徒の中には、試行錯誤のあまりマウスピースのリムにかぶり付き、「音が出ない……」と苦戦する姿もありました。そんな状況を救ってくれたのが、自衛隊音楽隊の方々でした。隊員の皆さんが2日間にわたりマンツーマンで指導してくださり、楽譜の読み方やスケールの吹き方を教わりました。そのときは「スケールが吹けるようになった」と喜びましたが、翌日はメチャクチャに。私自身はコールユーブンゲンやコンコーネの楽譜を読めたので、自ら歌って音を出しながら日々練習を重ねました。
一年が経つ頃には簡単な曲なら合奏できるようになりましたが、体育館で演奏しても音が後ろまで届かないのです。音を出して合奏させるのは指導者の責任であると考え、音楽大学の聴講生として楽器論・合奏論・指揮法など基礎を学びました。また、自分自身がすべての楽器でスケールを吹けるようにするため、個人レッスンにも通いました。
1973年(昭和48年)、楽器店の方から「関西の西宮球場で『2000人の吹奏楽』というマーチングフェスティバルがあるので見学してみませんか」と紹介を受けました。どんなものか見当がつきませんでしたが、「2000人が野球場で演奏する」と聞いて興味を持ち、見に行くことにしました。そこでは小学生から女子高校生までがフィールド上で動きながら見事な演奏をしており、その光景にカルチャーショックを受けました。
その翌日、マーチングの指導者協会が発足することを知り、すぐさま加盟しました。関西でのマーチング講習会にはすべて参加し、テクニックの習得とともに先輩の先生方から練習方法や指導法を学びました。これが、私のマーチング活動の始まりでした。
創部3年目には、体育祭の部活動紹介で先頭をパレードするようになりました。隣の小学校の鼓笛隊に倣って、PTAの要望で実施したものです。太鼓は小学校から借り、ドラムメジャーの指導も児童に教わりました。バトンは手首を左右に動かすだけの簡単な動きで、演奏も教則本の2拍子の曲でしたが、初めて見る光景に観客から大きな拍手をいただきました。当時はまだ「マーチング」という言葉も知られていない時代でした。

著者プロフィール
森義臣(もり・よしおみ)
日本マーチングバンド協会九州支部初代理事長、熊本県マーチングバンド協会名誉会長。熊本県芸術功労者賞受賞。
玉名女子高等学校吹奏楽部を創設時から指導し、日本有数の吹奏楽部へと育て上げたほか、テレビ熊本主催『くまもとマーチングフェスティバル』に50年以上携わり、九州の吹奏楽・マーチング界に多大な影響を与えている。